おおかみさん〜8話-前編-〜


3月14日。


世間はこの一ヶ月前の日に比べればさほど浮き足立つ事も無い。
イベントごとは男よりも女のほうが盛り上がる。そんなところだな。
経済効果もバレンタインデーの方がはるかに上だろう。

男はお返しを考えるだけであり、もらわなければそれすら考慮に無い。
女はお返しを待つのみ。上げたのであればお返しは必然であると、そういう思いもあるのだろう。
渡すときの緊迫感が無いのだからな。

だから、ホワイトデーは盛り上がらない。


もっとも、俺は例外なのかもしれん。



学校終了。そのままアパートへ真っ直ぐに帰る。
足取りは心なしか速めだ。急いては事を仕損じるというのにな。
しかし、焦燥感は拭いきれない。

まったく、馬鹿な話だ。




ここ最近の俺は、どこかおかしいと思う。

ただただ生きることだけにしか執着しなかった、枯れた人間だったはずなのに。
今は、多くの雑念で心を乱されている。
そう、確かに感じる

今もまた……

いや。
くだらない妄念だ。抱くだけ、無粋だな。


ホワイトデーとバレンタインデーの意味を知ったあの日から、あいつがカレンダーを見る頻度は多くなっていた。

それも、わずかに、うきうきと……。

否が応にもプレッシャーがかかるというものだ。
おかげで半端な仕事は出来ない。

今日の日のためにバイトは事前に休みをもらったのだがな。
思えば、病欠以外で休みを取ったのは初めてだ。
しかし、こんな形とは……。

冷静になれば、馬鹿だろうな。


だがまあ、しかし……。
あの約束から早くも一ヶ月がたったか。


たった一ヶ月で、変わったものもあったな。




アパートに帰り着いた。
扉を開錠して、部屋に入る。

明るいうちに戻ることは珍しいが、部屋は薄暗い。
カーテンが閉まっているのだから、当たり前だな。
誰もいないのだから。

出迎えは無い。


今は、誰もいない。



この一ヶ月の間、いろいろあった。






俺は準備を始める。
あいつが戻ってくるときに渡せるように。







あいつは、今バイト中だ。







「くしゅっ!」

くしゃみ……、出ちゃい、まし……た。
風邪……かな?
それ、とも……誰か、噂、してるのか……な……。

このあたりの、土地の、中、でも……高台に、ある、神社は……。

すこし、寒い、です……。

わたし、には……大丈夫、な、寒さ……です、けど。
普通の、人、は……すごく、寒い……かも、しれない、です。


でも、今日は、平気、です……。
楽しみ、な、事が……あります、から。

些細な約束、なんです、けど……。
とても、とても……楽しみ……です。


「おや、風邪かい?」

あ、……神主、様、です……。
ここでの、アルバイト、は……。
もともと、は……、ご主人様が、紹介された、ところ、ですけど……。
お正月、の、機会……に、わたしに、話しが、来たところから、始まり、まし……た。
今は、まだ……境内の、掃除、くらい、です……けど。

私は、首を、振り……まし、た。

「そうかね。では、どなたか噂でもしておるのかもね」

神主、様、……は、うんうん、と、頷きました……。

「いやはや。大方、高崎くんが君の事を心配しているのやも知れぬね」

「え……」

ちょっと、声が、出ちゃい……まし、た。

「いやはや、初々しいと言ったらないね。近頃の風俗は乱れに乱れていると内心辟易していたものなのでね。いやしかし、君らを見ていると、そうでもないのやも知れぬな」

「え、あ、その……」

なんと、答えたら、良いか……わかりま、せん。

「ずいぶんと顔に出やすいようだね。先ほども、なにやらご機嫌だったようだし」

「……」

もう、何も、言えません。
恥ずかし、くて……、ちょっと、下を、見まし、た。

「おや、これは少しからかいすぎたようだね。すまんすまん」

神主、様が……気まずそうな、声で、あやまりまし、た。

「……い、え」

わたしも、少し、反省……です。
ご主人様、に……、もう少し、はきはき、話すように……言われた、のに……。
まだ、やっぱり……、言葉が、出ません。

恥ずかしい、です。

「はてさて、話は変わるけど。大神さんが来てくれたおかげでこちらの参拝客も順調に伸びているのだよ」

「え、っと……、恐縮、です……」

「そんなにかしこまらなくてもいいよ。本当は高崎くんに同じ事をしてもらうつもりだったのだよ」

「ごしゅ……霧人さんに?」

どういう、意味、でしょう?

「ふむふむ。高崎くんは見栄えがするからね。彼がいると女性の参拝客が増えるのだよ」

なんか、わかり、ます。
御正月、の、とき……、そうでし、た。

「しかしまあ。君が着てくれてからは男性の参拝客がひそかに増えているのだよ。これはこれで嬉しいことだね」

神主、様……嬉、そう、です。
でも、それは……知りません、でし、た。

「おかげで儲かる」

………………ちょっと、俗っぽい、です。

「いやまた、そこでだね。話があるんだよ。今はまだ君には境内の掃除くらいしか頼んでいないけどね。もう少し仕事をしてもらおうかと思うんだよ。どうかね? もちろんお給金も増やすよ」

「え…………」

ちょっと、返答に、困りまし、た。

確かに、ご主人様の……家計を、考えると、断れません。
ご主人様の、体調を……考えれば……。
こちらから、お願い、したいです……。


でも、……。


「まあ、考えといておくれ」

神主様、は……。
わたしが、悩んでいるの、に、気付いた……みたい、です。

「……はい」

自分でも、分かる、くらい……。
か細い、声、でし……た。



引き受ける、べき、だと……思い、ます。
そうした、方……が、……いろいろと、助かる、はず、です……し。

でも、それでも……ためらって、しまい、ます。


わたしは…………。




人間じゃ、ない……から……。








荒療治、とうわけではなかったのだが。

人に触れさせるというのは当初からの指針でもあったからな。
あいつがどんな存在であれ、今世を席巻しているのは、やはり人間だ。
その世に不慣れでは、あいつの今後にも係わろう。

人の世であれ、人のない世であれ。

身につけておいて損な経験ではあるまい。


しかし、あいつの臆病さ加減でうまくこなせるかは、不安でならない。
仕事は出来る分、性格で損をしているかもしれん。

役に立つのに損をする、など。
馬鹿な話でしかない。


……だから、か。
俺があいつにこだわるのは。
くだらない妄念も、錯覚に過ぎんはずだ。


今考えても、詮無い。


ふと、些細な疑問が湧いた。

あいつの好みが分からん。

一ヶ月もあった準備期間に、たったそれだけのことを思わなかった自分が愚かでならない。
材料も器具も揃えてあるのにこの体たらく。
馬鹿な話しだ。

しかし、やるとなればやらねばなるまい。

作るのはクッキーだな。
まあ、無難と言うか定番と言うか、意外性も何もない。
が、菓子作りにおかしな創意工夫を凝らせばろくな事にならん。
下手に好みから外れれば取り返しもつかない。

ともすれば、だ。

ふむ。
以前のチョコレートの時は、やはりと言うか苦いのには反応していた。
チョコもケーキもおいしそうに食べていたあたり、甘い方が好みだろうな。

このあたりで分量を想定。
……よし、大体決まったな。

時間も惜しい。
取り掛かるか。


と、唐突に、電話が鳴った。


誰だ?

一抹の不安を覚えつつ、俺は受話器を取った。


「あ、高崎くん」

いきなり聞こえたのは安堵の声だった。
この声は……。

「店長? どうしました」

休みをもらったはずのバイト先の店長だった。
ひどく慌てた様子だ。

「いやあ、だめもとで自宅に電話したけど。良かった」

「なにが、ですか?」

尋ねては見るものの、大体の用件は見当がつく。

「ああ、そうだね。ごめんだけど、今日、今からこれない? 欠員が出ちゃってさ」

「欠員、ですか」

やはりか。予想通りだ。
でなければ、休みの者に電話などしないだろう。

しかし、だ。

俺には『約束』がある。
あくまでも個人的な約束だが。

大した約束、だとは思わないが。些細な事と言ってしまえば、その程度だ。
簡単に破っていいものでも、ない。
とは、思うが。

「急務ですか?」

「そうなんだよ」

しかし、間髪入れずに返答される。

「お困りなんですね」

「ああ、そうなんだ。折角のこんな日に取った休みなのに、悪いんだけどさ」

すがるような声。
なにがどうなれば、ここまで慌てるような事態になるのか。
うちのバイト人数は少なくはないはずだが。

もっとも、困るような事態になったことは事実だろう。
そういえば、俺以外にも休みを希望していた者がいて、今日はぎりぎりの人数でまわす予定だったか。
そこに欠員が出た。そんなところだろう。


全く、馬鹿な話しだ。


「わかりました」


悩む事など、ない。

これが俺だ。俺が俺に望んだ姿だ。
俺自身の命題。
役立とうとする、俺自身の命題だ。

だから、俺自身の個人的な約束など、……。



馬鹿だな。









結局……。
まだ、返事は、して……ません。

いつでも、いいとは、言って……くれました、けど。
どうした、ら……いいの、でしょう。

わたし、は……人間、じゃ、ありま……せん。

少し、そのこと、を……忘れて、まし、た。

だけど……。
働き、はじ、めて、……。
人間の、世界に、触れ始め、て……。

また、思い、出しまし、た……。

怖い、とも……思い、まし、た。


本当、は……。
気に……しなく、ても……いいこと、です、けど。
ただ、ご主人様に……仕える、だけ、なら。
考え、なく、ても……いい、こと、だけど……。



ただ、仕える、だけの…事を……。
ご主人様、は……望んで、いない、と……思いま、す。




今日の、お仕事、が……終わって……。
帰り、まし……た。

不安を、いっぱい……持って、帰って、きた……けど。
今日は、まだ、ちょっと……楽しみ、が、ある、から……。


3月14日、の、約束……。



あの時は、すごく、驚き……まし、た。

ご主人様、料理、出来ない……のに。


ちょっと、可笑しい、です。

でも、それを、思うと。
わたしも、お菓子、作れな……かった、です。

可笑しい、し……、不思議、です。


ご主人様、の、お菓子……。


「お、今日はご機嫌だねぇ」

「え?」

急に、声を……かけられ、まし、た。
振り返る、と、そこには……。
八百屋の、おじ様……、が、いまし……た。
お買い物、を、するように……なって、から……。
顔見知り、に、なった、人……です。

「あ、こ、こんにち、は」

「お、ちわ! 今日はうちに寄らんのかい?」

「は、はい……」

今日は、特に、お買い物……も、ありま、せん。
楽しみ、が、ある……から……。
ちょっと、早く、帰り、たい……かも。

「あちゃ、そりゃ残念」

「あ……、すいま、せん」

「っと、謝らなくてもいいって、鳴ちゃん。お得意様だし」

おじ様、は……わたしの、名前、を……呼び、なが、ら。
大きく、笑い、ました。

商店街、では……わたし、は。
ご主人様、から、いただいた……名前、で、通って……ます。

商店街。
最初、は、不慣れで……怖かった……けど。
優しく、して……くれる、人も、いて……。
今は、少し、ずつ……慣れて、きまし、た。

今まで、触れる、ことが……無かった。
人間、の、街……だけ、ど……。

少しずつ、好きに、なって……きてます。


ただ、好きに、なるだけ……怖いです。

わたしは、人間、じゃ、ない……から。

優しく、して、くれる……のは……。
わたし、が……、人間、『みたい』、だから、だと……。
思い、ます。
ご主人様、も……最初、は、すごく、怖かった、です……。

それに……。
過去の、文献……昔話、では……。
人間、と……人外、は……、嫌い、合ってる、と。

わたしは……怖いけど、……。
嫌い、じゃ……ありま、せん、けど……。

でも、わたし、は……。
どう、思われて、る、か……分からない、から……。
怖い、です。

優しい、から……怖い、です……。

好きになる、ほど……、怖い。



八百屋の、おじ様、に……お別れを、言って。
また、歩き、出しまし……た。


怖い、こと、ばかり……考えて、も……。
仕方、ない、かも……しれま、せん。


今日は、楽しみ、が……あるはず、なのに……。

今日に、限って……怖い、こと……考え、て……。
いつもは、違う、のに……。


帰り、着くまで……頭の、中が、ぐるぐる、と。
どうしようも、なく……考えて、しまって……。

帰り着いて、ご主人様を、見たら……。
なんとも、なく、なる……と、思う、けど……。


帰り、着いて……扉の、前で、深呼吸……。

すー、はー、すー、はー。
落ち着い、て。

……よし。

ちょっと、気合を、入れて……。
顔が、暗く、ならない、ように……。
扉を、開け……ようと……。

「え?」

開きま、せん。

つまり、ご主人様、が……いない。


嫌な、予感、が……して……予備の、鍵で……入った、ら。
部屋には、誰も、いません。

どこにも、いま、せん……。


ご主人様、が、いませ……ん。


「約束……は……」


机の、上に……書き置き、が、ありまし……た。


『急用が入った。遅くなる。先に寝ろ』


それだけ、でした……。


「……約束……」


些細な、事、です……。

そう。
些細な、事、なん、です……。


ご主人様、は……。
本当は、とても、忙しい、はず……です、から……。

こうなって、も……当然、なん、です。


「……約、束」


だから、平気、です……。

台所、に、……準備、してた、後が、ありました……し。
忘れて、た……わけじゃ、ない、です、し……。


それに、まだ、言葉を……残して、くれて、ますし……。

前の、ように。
わたしが、知らない、間に……。
無理を、されて、しまう……より。
いいん、です。


わたし、一人が、納得、して……。
それで、いいん、です。


些細、な、こと……なんです、から……。


……、だか、ら……。




「………………ぐすっ」


泣くこと、ないん、です……。





☆おおかみさん第8話〜後編に続く〜☆

おおかみさん第8話〜後編〜

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