同じ空


   同じ空


 世間は冬だ。一応、暦の上ではまだ秋なんだが、外に二十分突っ立っていただけで、俺の右手の感覚が無くなってきた事実を尊重すると、冬と断言しても構わないだろう。
今年の冬は、去年より早くやってきたようです。
出がけに聞いたニュースの情報が、頭の中で何度か再生される。まったくだ。冬物のコートを着ているというのに、俺の体は家を出たときの体温を保っていない。
 俺は、ポケットの中の左手に少し力を込めた。こいつだけは、まだ暖かい。その左手に大事に握られているのは、今や持っていない人を探すのが難しいぐらいの文明の機器、携帯電話だ。サイレントモードにしてあるので、何かあれば反応があるはずだ。が、俺がこの場所に来て二十分、未だに反応はない。当たり前か。約束の時間までは、まだ五分ぐらい間があるのだから。視界を通り過ぎる人々は、決まって誰もが早足だ。駅前の怪しげなモニュメントの前に、寒さのガマン大会みたいに立っているバカは、世界中探しても俺独りしかいないだろう。

 「う〜、さむっ」

言いながら、右手に持っている写真を落ちないように持ち直す。ついでに、二、三度、息を吐きかけてみるが、まったく効果はなかった。俺は本当に写真を握っているのかどうか、つい目で見て確認してしまうぐらいだ。
俺がこの寒空の下、待ち合わせの時間より三十分近くも早く来たのは、この写真が原因のはやる気持ちを抑えられなかったからだ。
写真の中の風景は外のそれとは違い、とても暖かそうな、優しい青空が広がっていた。所々に雲が写っているが、快晴と呼ぶにふさわしい天気だ。もちろん、太陽は写っていない。俺がこの写真を撮ったのは、今年の夏、普通のインスタントカメラでだ。写真は好きじゃなかったけど、この写真を撮る時のために何度か練習した。その時の太陽の光、その雰囲気まで、写真に収めたかったから。
 後、何分だろう。時計がわりの携帯は、いつもと変わらない左手が守っている。が、外に出して冷えるのが嫌だから、確かめようとは思わない。確かめるまでもない。電車はもうすぐ、定刻通りにやってくる。彼女を乗せて。


俺が彼女と知り合ったのは、桜の季節だった。俺は持病の喘息の発作で、行き付けの病院に入院した。その病院で、彼女は俺と同じ病室だったのだ。同じ病気で入院していた彼女は、俺より体調が良くなかった。同じ病を持ち、年も近かった俺と彼女は、自然と話すようになった。そして、いつからか俺と彼女は、写真の話をするようになった。
思い出なんてものを持つと、何となく自分が老けたような気がしてくる。だから、その、思い出というものを象徴する写真を俺は嫌っていた。俺は彼女に何度もそう伝えたが、彼女は聞く耳を持たないといったふうに、写真の素晴らしさを、毎日、熱弁してくれた。ちょくちょく入院し、あまり遠くへ遊びにいけない彼女にとって、写真は思い出などではなく、いろんな場所の景色を知る数少ない方法の一つだということ。その時の雰囲気までもフィルターに収めることができれば、感動すらも伝わるということ。いい写真は、人の心をも動かせるということ。そんな話を聞いているうちに、俺も少しは、写真が好きになってきた。そういう見方もあるんだな、と。
喘息というものは、季節の変わり目にひどくなる。逆にいえば、この、忘れたころにやってくる病は、季節が安定すれば治まるのである。何日か経つにつれ、俺も彼女も体調が良くなり、別れの日がきた。先に良くなったのは、俺の方だった。もうすぐ退院すると告げた俺に、彼女は言った。

  「私、前からやってみたかったことがあるの。テレビとか小説で、誰かが空を 見上げていると、どこか遠くにいる誰かも、きっと同じ空を見てるんだろうな、って言ってるシーンがあるじゃない?私、あれが本当かどうか、知りたかったの。だから今度、同じ空を、同じ時刻に写真に収めない?私も、もうすぐ退院できるから、その後で、ね?」



 俺は彼女との約束を果たす為、慣れない写真を、きれいに撮る練習をした。彼女の言っていた通りに、その時の雰囲気まで、その時の暖かさをも、写真に残したかったからだ。そして、退院した彼女からの連絡を受け、お互いに離れた場所から、同じ時間に、同じ方向の空の写真を撮った。


 駅に電車が入って来た。ドアが開き、人が降りて来る。人はまばらだが、それでも、誰か一人を捜すには多く、また、遠かった。だが、あの人ごみのどこかに彼女がいるはずだ。俺が持っているのと同じであろう写真を持って。
俺は、もう一度、写真に目を落とした。暖かい夏の空。俺にはそう見えるが、果たして、それは他人にも伝わるんだろうか。少し不安になるが、見ていると心なしか、体温も上がっていくような感じがする。
その写真を左手に持ち替え、すっかり冷え切った右手をポケットに入れる。暖かさすら感じない右手とは対照的に、外の空気に当てられた左手は、みるみる体温を奪われていく。それでも、きっと後何分かは、右手よりは暖かいはずだ。
 俺の目が彼女を写した。彼女も気付いたようだ。寒さに少し小さくなりながら、こっちに向かって来る。
そう、彼女がやってくる。一枚の写真を持って。同じ空の、写真を持って。

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