幸の鳥





(あら、また来てる)

彼女は病院の前を見てそう思った。

入口の外の木の影から、小さい男の子が一人、こちらを見ているのだ。

彼女はこのところ毎日のように、男の子を見かけていた。

(どうしたのかしら?)

声をかけようかとも思ったが、彼女の病院は忙しかった。

嵐のようにやってくる仕事が済んだ頃には、いつも男の子のことは頭から消えてしまっていた。

そしてそのまま、裏口から帰宅する。

出勤するのも裏口からなので、彼女はその子がいつからいて、いつ帰るのか知らなかった。

わかっているのはただ、いつも病院の中を見ているということだけ。

その目はまるで、何かを待っているかのようだった。





その日も彼女はくたくたになって帰宅した。

晩ご飯は出来合いのもの。

音楽をかけて食事をしていると、ふいに携帯が鳴った。

彼女は手を止め、携帯の画面を見て、

『…』

でるのをやめた。


用件はわかっている…。
疲れた体で話をするのもおっくうだ。
休みの日にでも会おう。


そう思ったからだ。

しばらくのコールの後、携帯は鳴りやんだ。

相手は、彼女の婚約者からだった。

三か月後に結婚が決まっている。

理解もあり、愛もある。

まわりも祝福してくれており、心配ごとは何一つ無い。

ただ一つを除いて。

『そういえばあの子、ちゃんと帰ったのかしら』

彼女はその時、病院の前にいつもいる男の子のことを思い出した。

あの子は何故、あんなところにいるのだろうか?

『明日もいたら、話しかけてみようかな…』

初めて見かけてからもう二週間。
さすがに気になる。

それに、もしかしたら自分の悩みが解消されるかもしれない。


そう思いながら、彼女は食事を終えた。



次の日は雨だった。

朝には小降りだったのが、昼ごろには滝のような雨になっていた。

そのため、患者さんは少なく、その日は珍しく暇になった。

『休憩入っていいわよ』

婦長さんにそう言われ、彼女は何か買いに病院内の売店に向かった。

売店で会計のお金を出していると、突然、

『聞いたわよ』

と、レジのおばちゃんが話しかける。

『え…!?』

彼女は一瞬ドキリとする。

『今度、結婚するんですって?
おめでとう』

『あ、あぁ。
ありがとうございます』

あの事、では無かったのにほっとし、彼女は二言三言交わして、その場を離れた。

『おばさん達は噂話が好きだから、気をつけなくっちゃ』

そう呟いて、彼女はあの男の子のことを思い出した。

『いけない、今日はいたかしら…』

すっかり忘れていたため、まだ確認していなかった。


だが、今日はひどい雨だ。
はたしているのだろうか…?


そう思いながら彼女は入口から外を見てみた。

男の子は、そこにいた。

傘もささずに、木の影に体育座りをしてこっちを見ている。


いつからいたのだろうか?
朝からずっと雨に降られていたのなら、風邪をひいてもおかしくない。


彼女は入口にさしてあった忘れ物の傘をさして、慌てて男の子のところに向かった。

『僕、どうしたの?』

傘に男の子を入れながら、彼女は聞く。

見た目、まだ3、4歳ぐらいのその男の子は、不思議そうに彼女を見上げながら、

『待ってるの』

と、言った。

彼女は男の子の前にしゃがみ、目線を同じぐらいの高さにする。

『誰を待ってるの?』

『コウノトリ』

『こうのとり…?』

なぜ?と、彼女は思った。
どうしてコウノトリがこの病院に来ると思っているのだろうか?

『おねぇちゃんは、コウノトリさんのお友達?』

彼女が言葉に詰まっていると、男の子が聞いてきた。

『お友達、じゃ、ないけど…、コウノトリさんに何の用事なの?』

彼女は正直に聞いてみた。

『コウノトリさんは、赤ちゃんを届けてくれるんでしょ?』

『そう、ね。そうよ』

『病院には赤ちゃんポストがあるって聞いたの。
コウノトリさんはそのポストから、赤ちゃんを連れていくんでしょ』

なるほど。
この男の子は、コウノトリが子供を運ぶという古いお話と、最近設置された赤ちゃんポストをくっつけて考えたのか。

彼女は自分のお腹に手を当てながら、男の子に話を促した。

『僕は、コウノトリさんにお願いごとがあるの?』

『うん』

男の子は大きく頷いた。

『もしかして、弟か妹が欲しいの?』


この男の子は、兄弟が欲しいから、コウノトリにそのことを頼もうと思ってここに通っていたのか。
でも、こんな雨の中一人で、親は心配しないのだろうか。


そう考えてした彼女の質問は、

『ううん、違うよ』

あっさりと外れた。

『コウノトリさんに、僕のお父さんとお母さんのところに、赤ちゃんを連れて行かないでって、お願いするの』

男の子は、感情のない声でそう言った。

『ど、どうして…?』

『だって、お父さんとお母さんは子供をぶつんだよ。
痛くて痛くて、泣いても許してくれなくて。
ご飯も食べさせてもらえなくて、お腹が空いて眠れなくて。
頭が痛くても、体が痛くても、咳が出ても、血が出ても、元気がなくても、お父さんとお母さんは僕をぶつんだよ。
痛くて痛くて、泣いても許してくれなくて。
ご飯も食べさせてもらえなくて、お腹が空いて眠れなくて』

『…っ!』

彼女はその言葉に息を飲み、雨に濡れるのも構わず、男の子に抱き付いた。

それでも独白は続く。
『だからね、そんなお父さんとお母さんのところに、赤ちゃんを連れて行かないでくださいって、コウノトリさんに言いに来たの。
赤ちゃんが、かわいそうだから。
でもコウノトリさん、ちっとも来てくれないの。
どうしたのかなぁ』

『コウノトリさんが来たら伝えておくから、僕は安全なところに行こうね』

彼女はそう言って、男の子を連れて行こうとして、ハッとした。

『僕はいいの。
僕はもう安全なところにいるから』

男の子の体は、ずぶ濡れの彼女とは対照的に、湿り気一つ無かった。

『あ、あぁ…』

彼女の頬を水滴が伝う。

『だからね、僕みたいになったら悲しいから、コウノトリさんに、赤ちゃんは別のお父さんとお母さんのとこ―』

『ぁぁ…、う、ぁ…、ご、めん、ね…、ぅぅ…、きづい、てぇ、あげられなくて、っ』

彼女はもう一度、より強く、男の子を抱き締めた。

頬を伝う水滴は増し、投げ掛ける言葉に嗚咽が混じる。

『おねぇちゃん?』

男の子は首をかしげる。

彼女に非は無い。

この世の中にいる無数の家族がどんな生活をしているか知る者など、どこにもいない。

それでも彼女は、雨の中、男の子に向かって謝っていた。

自分には、そうすることしかできなかったから。

『おねぇちゃん。
コウノトリさんが来たら、伝えておいて。
僕、もういかなくちゃいけないから』

『ぅっ…、わかったわ…っ』

『良かった。
僕、安心していけるよ』

そう言って男の子は立ち上がった。

彼女はひざまずいたまま、男の子を見上げるようにして、

『それだけでいいの?
コウノトリさんに文句を言わなくていいの?
どうしてあんなお父さんとお母さんのところに連れて行ったの、って』

男の子はそのとき少しだけ悲しい顔をした。

『間違えちゃったんだよ。
コウノトリさんは大変だから、きっと間違えちゃったんだよ。
だって、だってコウノトリさんは幸せの鳥って書くんだよ。
だから、間違えたんだよ』

『…そうね。
もう間違えないように、ちゃんと言っておくからね』

『うん。
ありがとうおねぇちゃん』

男の子は笑った。

『僕、名前は?』

『幸太郎』

彼女は最後にもう一度、男の子を強く抱き、

『幸太郎、よく頑張ったね。
えらいぞ』

優しく頭をなでた。

『ありがとう、おねぇちゃん。
…僕、今度はきっ、と…っ、ぅ、しあ、わせに…、ぅぇぇっ、なれるよ、ね、ぇぇ、っ?』

『なれる。
きっとなれるよ』



ザァァァァァッ

滝のような雨が降る。

まるで溶けるように、男の子はいなくなっていた。





『お待たせ』

そう言って、彼女は喫茶店の席に座る。

向かい側には婚約者が座っていた。

『大丈夫。そんなに待ってないから』

そう言って笑うが、彼女に氷の溶け切ったコーヒーを指摘され、すぐに苦笑いに変わった。

『仕事、忙しいみたいだね。
大丈夫?』

当たり障りのない話から入る。

優しい人、と、彼女は思った。

『大丈夫よ。
それより、子供のことでしょ?』

『あ、あぁ、そうだけど…』

婚約者は驚く。

その話は、彼女自身が避けてきていたからだ。

だが今日、彼女にはある決意があった。

『君は育てられるか心配だって言ってたけど、俺もできるだけ努力するし、おふくろ達も協力するって言ってるしさ』

妊娠はしたものの、仕事もあり、子供をきちんと育てられるか自信がなかった彼女は、今まで産むかどうか迷っていた。

『産むわ。
今なら私、ちゃんと育てられる気がするの』

男の子に会って、その考えは変わった。

今の彼女に『産まない』という選択肢は無かった。

『ホントか!?
良かった〜。
実はもう名前とか考えてたんだよ』

婚約者は胸をなで下ろした。

『ねぇ、名前って…、どんなの?』

彼女はその言葉に、運命めいたものを感じた。

『女なら〜、ミチル。
男なら、幸太郎』

彼女はそれを聞いて笑顔になった。

『わ、笑うなよぉ。
…変か?』

『そんなことないわよ。
凄く、いいと思う』


男の子でも女の子でも、大事にしよう。

コウノトリは間違えない。

間違えるのは、人間のお母さんとお父さん。

だから私は、私達は、決して間違いを犯さないようにしよう。


彼女はお腹に宿った命の重さを感じながら、そう思った。




『あとがき』

今までで一番長い作品になりましたが、場面も結構変わってるし情報が多いので仕方ないかなと。

昔ながらの『コウノトリ』と、最近の『赤ちゃんポスト』をミックスさせてみました。

我ながら良くできた作品だと思ってます。
悲しい話なので、読み終わった後スカっとはしないでしょうが…。

一言感想もらえるとうれしく思います。

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